PLAYER ON-LINE HOMEギター総研 > ギター偉人伝
ギター偉人伝

テッド・マッカーティー Theodore M.McCarty(1910〜2001)

 '48年に入社し、'50年には40歳の若さで当時のギブソン社のトップの地位に着き、その後'66年の退社まで、ギブソンの黄金時代を築きあげたテッド・マッカーティーは、特にエレクトリック・ギターの歴史において大きな功績と名声を残している。彼はギブソン社の発展に大きな貢献をもたらした経営者としてのみならず、現在に至るまで継承される画期的なギターの構造の開発やレス・ポール・モデルやES-335など多数の製品開発に関与したことで知られている。彼が残した偉大な業績を紐解いてみよう。

 1910年、ケンタッキー州サマーセットに生まれ、オハイオ州シンシナティで育ったセオドアM. マッカーティーはシンシナティ大学でエンジニアリングについて学び、在学中から大学の書店で働き、卒業後はその経営管理に携わっていた。そして結婚を機に地元シンシナティにあった世界的な鍵盤楽器メーカーのウーリッツァーに就職した。彼は書店での仕事で得たビジネス経験を元にウーリッツァー社で販売促進や経理、資材購入の仕事に携わり、退社前はその部門の責任者を務めていた。そこでの実績と手腕を買われ、'44年にギブソン社を買収したシカゴ・ミュージカル・インストゥルメント・カンパニーの社長だったモーリス・バーリンの要請で、テッドは'48年、ギブソンに入社する。当初は最高経営責任者として就任し、まもなく'50年には社長の座を得た。

 テッドは経営面でギブソン社への参加を請われたが、元々エンジニアリングを勉強してきた経緯もあり、工場を見回る中で製品の開発にも積極的にアイデアを出した。彼の名前がギブソン社の歴史に刻まれた最初の功績は、ピックガードにピックアップやコントローラー、アウトプット・ジャックが一体化して搭載されたフィンガーレスト・ピックアップだ。'48年にテッドの名前でパテント出願されたこのフィンガーレスト・ピックアップは、取り付ける際にボディ・トップに穴を開けたりして鳴りを損なったりせず、最小限の加工で取り付けられるというものだった。同時期にテッドはES-175、ES-5といった現在もファンの多い名機の開発にも携わっている。

 彼の残した功績の最も大きなものの一つはレス・ポール・モデルの開発に関わったという点だろう。'50年にフェンダー社から発表されたソリッド・ボディのエレクトリック・ギターであるブロードキャスター(後にテレキャスターと変更)は当初、楽器業界からは冷ややかに受け止められていたが、次第にギタリスト達に普及し始め、その数はギブソン社にとっても無視できないものとなっていた。最初にエレクトリック・ギターを量産化し、当時トップの位置にあったギブソン社としても、優れたソリッド・ボディのエレクトリック・ギターを開発する必要が生じたわけだ。ギブソン社がソリッド・ボディのエレクトリック・ギターを開発するにあたり、当時トップ・ギタリストの地位にあったレス・ポール氏を'40年代初めからソリッド・ボディのエレクトリック・ギターに関するアイデアを試行しており、ギブソンに協力を求めたこともあったので、両者にとって最善の結びつきとなったわけだ。'50年から51年の間にかけて製作されたレス・ポール・モデルのプロトタイプが作られた。これに関してはギブソン社側とレス・ポール氏で意見が分かれている部分だが、伝統的なギブソンのフル・アコースティック・ギターを縮小したようなボディ・シェイプ、マホガニー・バックにメイプルを貼り付けたアーチトップ・ボディといったデザインは、テッドの指揮の元、ウォルター・フラーを初めとするギブソンのエンジニア・スタッフによるデザインと見て間違いないようだ。テッドは自らそのプロトタイプのギターを携えてレス・ポール氏のもとを訪ね、レス・ポール氏の承諾を得て彼と契約を結ぶこととなった。テッドがレス・ポール氏に見せたプロトタイプは'52年に市販が開始された際のものとほぼ同じ仕様だったが、フィニッシュはサンバーストで、ボディにはブランコ型テイルピースと独立したブリッジが載せられていたという。そのプロトタイプを試奏したレス・ポール氏の意見を採り入れ、彼自身が開発したコンビネーション・ブリッジ・テイルピースを搭載し、ゴールド・トップ・フィニッシュとなった。

ijin_ted_a.jpg
1952年にすでに考案されていた、
テッド・マッカーティのチューン“O”マチック・ブリッジ。
パテントは1956年4月に与えられた。

 '52年に正式に発表されたレス・ポール・モデルは好評を博したが、弦を下側に通すスタイルのトラピーズ・ブリッジ/テイルピースは右手で弦をミュートできないというデメリットがあった。そこで'53年にはテッド・マッカーティーのデザインによるスタッド・ブリッジ/テールピーへと仕様変更された。これはボディに埋め込んだアンカーを介して2本のスタッドでブリッジとテイルピースを兼ねるバー状のパーツがセットされるもので、スタッドで弦高調整が行なえ、左右端のイモネジによって簡易なイントネーション調整も可能というシンプルながら優れたデザインを持っていた。'53年にパテント出願が提出されたこのスタッド・ブリッジ/テイルピースは“テッド・マッカーティー・ブリッジ”の愛称で呼ばれ、今なおそのデザインと特有のサウンドを愛するファンも多い。

 '55年にレス・ポール・モデルは再びブリッジ部のモデル・チェンジを受けた。この時に採用されたのが、既に'52年にパテント出願が提出されていたチューン・オーマティック・ブリッジだった。'51年にグレッチのギターに搭載されていたメリタ・ブリッジの影響から開発されたこのブリッジは、各弦独立してイントネーション調整が可能なもので、ボディに直接打ち込んだスタッドとサム・ナットによって弦高調整もできるというものだった。現在、かつてのデザインの復刻版やその改良バージョンであるナッシュヴィル・チューン・オーマティック・ブリッジも含め、多くのギブソン・ギターに搭載されている個のブリッジも、やはりテッド・マッカーティーの名前でパテント出願がなされている。

 ここまで記述したギター・パーツだけでなく、テッドはギターのデザインに関するパテントも取得している。'57年に出願されたフライングV、フューチュラ、モダーンの3つのモデルのデザインである。フライングVは説明するまでもなく広く認められた最も過激なデザインのギターとして現在も高い人気を持っている。フューチュラはエクスプローラーの原型となったもので、比率は異なるものの、パテント出願の時点でZ字状のスタイルはほぼ完成していた。モダーンはその存在すら確認されていない幻のモデルとして知られ、'83年に限定生産された。これらのモデルは、当時アーチトップ・ギターがメインの保守的なブランドと思われていたギブソン社のイメージに対し、思い切ったラディカルなデザインのギターを発表することで先鋭的なイメージの回復を計ろうとするものだった。いくつかのデザインによるプロトタイプが作られ、その中からフライングVとエクスプローラーのプロトタイプが製作され、トレード・ショウでは大評判となったが、実際のショップやユーザーにとっては先進的過ぎて芳しい反応を得られず、フライングVは100本弱、エクスプローラーはわずか22本の出荷が記録されるに留まった。だが、時を経てこの2つのモデルの時代を先取りした感覚は徐々に認められ、現在もそのデザインを継承するモデルがコンスタントに生産し続けられている。

 テッドが指揮を取るギブソン社は、フライングV、エクスプローラーのデザインと平行して、ソリッド・ボディのギターに容易に移行できない保守的なギタリストの層に向け、'58年に発表されたES-335を皮切りとするセミ・アコースティック・ギターをデザインした。これはフル・アコースティック・ギターに近い16インチ幅のボディを持ち、fホールを備えながらも、ボディの厚みはフルアコの約半分の薄さで、ピックアップやブリッジが載る部分にはセンター・ブロックが仕込まれていた。外観や持ったときの感触はフル・アコースティックに近いが、サウンドはソリッド・ボディ寄りという画期的なアイデアを盛り込んだES-335シリーズは、発表以降も現在に至るまで途切れることなく生産されるギブソンを代表するモデルの一つとなった。

 その後もテッドは、フライングVとエクスプローラーでは思ったような成功を得られなかったモダンな感覚のギターを目指し、自動車デザイナーのレイ・ディートリックを起用し、ファイヤーバード・シリーズを開発したりなど、今なおギタリストやヴィンテージ・ギター・マニアの間で高く評価されているモデルの誕生に関わった。そして'65年、かねてから取り引きを通じて友人だったポール・ビグスビーのビグスビー社を買い取り、'66年にはギブソン社の社長の座を退くこととなった。テッドが社長となってから辞めるまでの間に、ギブソン社の従業員は120人から1,500人にまで拡張し、業績は100万ドルから1,500万ドルにまで成長していた。ギブソンの親会社であるC.M.I.のバーリン社長は多額の報奨金を提示して引き留めたが、テッドはそれを辞退してギブソン社を去ったのだった。テッドはビグスビー社をカリフォルニアから住み慣れたミシガン州カラマズーに移し、財政難だった経営状態を立て直し、マイ・ペースながらも堅実なビジネスを続けた。その後もエレクトリック・ギターの黄金時代を築きあげた貢献者として彼を敬愛する人は現在に至るまで絶えることなく、'90年代に入ってからはポール・リード・スミスに請われてアドヴァイザーとして関わったりしている。'01年4月、テッド・マッカーティーは91才で永眠した。彼の名前はエレクトリック・ギターの歴史と共に、後世に語り継がれていくだろう。

(川上啓之)
写真:YMM PLAYER別冊「HISTORY OF ELECTRIC GUITARS」より転載。

ジョン・ディアンジェリコ JOHN D'ANGELICO(1905〜1964)

ijin_dangelico_a.jpg
多くのジャズ・ミュージシャンにとって憧れの
的であるディアンジェリコのニューヨーカー・
スタンダード写真のギターは近年ディアン
ジェリコ・ジャパンより発売された復刻モデル。
スモール・ハムバッキング・ピックアップは
ベスタクス・オリジナル製のものをマウント。
済んだ美しいトーンが印象的だ。

 アーチトップ・ギターを完成へと導き、その人気を決定付けたのはギブソンであるが、それを一つ上の段階の高みに押し上げた存在がジョン・ディアンジェリコであることは間違いないだろう。彼が作り上げたギターの数々は個人製作家としては異例といえるほどヴィンテージ市場で高値を呼び、彼がデザインしたギターは現在でも数多くのギタリストを魅了し続けている。

 ジョン・ディアンジェリコは1905年、ニューヨークのイタリア系アメリカ人の家に4人兄弟の長男として生まれた。彼の大叔父のラファエル・シアーニがイタリアン・スタイルのヴァイオリンやマンドリン、フラット・トップ・ギターなどの弦楽器の製作・修理の仕事をしていた関係で、9才の時からシアーニの元で修行を始めた。シアーニの死後、彼は10代の若さでショップの監督権を受け継ぐこととなった。だが、ショップを運営するよりも自ら楽器を製作することに興味を持ったジョンは'32年、27才の時に独立し、ニューヨークのケンメア・ストリートに自らのショップをオープンし、ヴィンセント“ジミー”ディセリオをアシスタントとして雇い、ギター製作を開始した。当初はヴァイオリンやマンドリンを製作し、同時にギブソンL-5を模倣したギターの製作も開始した。当初はマンドリン・オーケストラを構成する楽器の一つという位置付けのアーチトップ・ギターだったが、'20年代の終わりにジャズ・ギターのパイオニアであるエディ・ラングがL-5を手に活躍し始めた頃から人気が高まり、'30年代に入ってからは他メーカーもギブソンに倣いfホールの付いたアーチトップ・ギターを作り始めた。このような時代にジョンがギブソンL-5をモデルにしたのは自然の成り行きだったが、ボディ・サイズに関してはL-5が16インチなのに対しジョンのギターは16 1/2インチとなっていた。

 '36年には自らのデザインによるスタイルAとスタイルB、そしてニューヨーカーとエクセルと名付けたモデルを作り始めた。ディアンジェリコを代表するモデルとなるニュー・ヨーカーは17 3/4インチ、エクセルは17インチのボディ幅を持ち、Xブレイシングを採用していた。これは'34年にL-5のサイズを17インチ幅に拡張し、同年に18インチ幅の最高峰ギター、スーパー400を発表したのに触発された部分が大きい。だが、この2モデルはヘッドのインレイやピックガードテイルピースなどのデザインにアール・デコを採り入れた。ニューヨーカーのヘッドのインレイはマンハッタンの摩天楼をモチーフとしたものであり、エクセルの“ブロークン・スクロール”と呼ばれるヘッド先端をカットした独自のデザインはイタリアのマンドリンの意匠を継承するもので、ディアンジェリコならではのアイディンティが形となって現れている部分だ。

 '47年にはニューヨーカー、エクセル共にカッタウェイ仕様を作り始めた。これによりディアンジェリコのギターは完成を見、アーチトップ・ギターの規範として多くの追従者を生み出した。その中でも正統的な後継者がジェイムズ・ダキストだ。ダキストは'52年、17才の時に見習いとしてジョン・ディアンジェリコに弟子入りし、ジョンが亡くなるまで彼の工房で働いた。ジョンの死後、ダキストは自らのギターワークショップを開き、自分の名前を冠したギターを製作し始めた。当初はディアンジェリコのギターの仕様とデザインを継承したモデルを製作していたが、後に独自の発想による進化したアーチトップ・ギターを何本も生み出し、アーチトップ・ギターの個人製作家としてディアンジェリコと並ぶ存在にまでになった。そのダキストも、'95年に、皮肉にも師匠と同じ59才で他界してしまった。

 ディアンジェリコのギターはユーザーからのオーダーのみによって作られ、これは彼が死ぬまで変わることはなかった。徐々にディアンジェリコのギターは有名なギタリストに使われるようになった。例えばジョニー・スミス、チェット・アトキンスなどの巨匠として知られるミュージシャン達だ。彼らが使用したこともあり、ディアンジェリコのギターはアーチトップ・ギターの頂点として多くの人に知られるようになった。

 '64年、ジョン・ディアンジェリコは心臓発作によってこの世を去った。まだ59才という若さだった。彼が32年間に作り上げたギターは1,000本強。個人製作家としては少なくはない数字ではあるが、世界中のディアンジェリコのギターを求める人々の数がヴィンテージ市場での価格を上昇させている。高嶺の花となってしまったディアンジェリコのギターを望む声は絶えることなく、それに応え、現在では日本でジョンの意志を受け継ぎ、新たなディアンジェリコ・ギターが創造されている。

(川上啓之)
→ テッド・マッカーティー へ

トニー・ゼマイティス Tony Zematis(1935〜2002)

ijin_zematis_a.jpg
写真A:ゼマイティス・ギターに関するスクラップ
を床に広げたトニー。左下にはなんと
ゴールド・フィニッシュのゼマイティス・ギターが!

 O.H.ギブソン、C.F.マーティンをはじめ、このギター偉人伝で紹介されている人物の多くは、そのキャリアを個人製作家としてスタートしている。ここで紹介するアンタナス・カシメレ・ゼマイティス――英語風表記でアンソニー・チャールズ・ゼマイティス、通称トニー・ゼマイティスで知られるギター・ルシアーも、これまでに世界中に何千人も存在したであろう個人製作家の一人だ。だが、彼が死ぬまでに生み出したギターの数々は芸術的な輝きを放ち、誰の目から見ても特別なギターだということが解るオーラを醸し出している。ギターの発展に貢献したという意味では、それを芸術品にまで高めたという意味で、ここで紹介するに相応しい作品を残したルシアーといえるのではないだろうか。

ijin_zematis_b.jpg
写真B:制作途上のアコースティック・ギターを
前にしたトニー。彼は主にイギリスやヨーロッパ
から選りすぐりの材木を入手していた。

'35年生まれのトニー・ゼマイティスの祖父母はリトアニア出身だが、両親と彼自身はイギリスで生まれた。'51年、16才のトニーは学校を離れ、家具製作の修行を始めた。彼が制作した飾り棚は、後にウィンザー城やセント・ポール寺院などに使われるほどの出来映えだったという。そしてその傍らで、趣味として屋根裏部屋で見つけた壊れたギターを新しく生まれ変わらせたりして楽しんでいた。'55年には初めてナイロン弦のアコースティック・ギターを製作している。その頃トニーは2年間、軍の仕事に携わったが、その後も趣味としてアコースティック・ギターの製作を続けていた。それが次第に周囲で評判となり、'60年には原材料費のみで人に売ったりもしていたという。製作を続けるうちに彼の製作したギターはプロのギタリストにも評判となり、'65年には趣味だったギター製作が本業へと成り代わっていた。トニーがそのキャリアの初期に製作したギターを使用したリストの中にはスペンサー・デイヴィスやジミ・ヘンドリックスも名を連ねている。彼の製作したギターの評判は人から人へと口伝えで広まり、'60年代の終わりから'70年代初めにかけてロン・ウッドを筆頭に、エリック・クラプトンやジョージ・ハリスン、ドノヴァンやボブ・ディランなどのトップ・ギタリストからの注文も舞い込むようになった。

 現在ではゼマイティス・ギターのシンボルともなっているメタル・フロントと呼ばれるモデルの最初の一本は、ザ・グラウンドホッグスというバンドのトニー・マクフィーのために作られたものだった。この当時トニーの友人でショットガンの彫金を手掛けていたダニー・オブライエンが、トニーの制作したメタル・フロントのアルミニウム製プレートに彫金を施すことを提案したのだが、この彫金が施されたメタル・フロントはロン・ウッドの使用で大きなインパクトをもたらし、トニーの元には多数のオーダーが殺到することとなる(写真C)。だが、トニーは事業を拡張することなく自らのハンドメイドにこだわり、年間に25〜30本程度しか製作しなかったため、注文を断らなければならないほどだった(写真D)。こうしてゼマイティス・ギターは成功したミュージシャンのステイタス・シンボルとして、数多くの音楽雑誌のグラビアを飾り、トニーの名声とゼマイティス・ギターに対する評価も相乗効果で高まっていったのである。

 '72年にはトニーはロンドンを離れ、自宅と工房をケント州へと移し、それ以降もマイ・ペースでトップ・ミュージシャンからのオーダーに応え、優れた作品を生みだしていった。'80年にはカスタム・オーダーだけでなく装飾をシンプルにしたスチューデント・モデルまたはテスト・モデルと呼ばれるシリーズも製作するようになったが、それも全て彼自身の手によって製作されていたため、順番待ち状態で世界中のギタリストから寄せられる注文に応える中では思うように製作することが出来ず自然消滅してしまった。しかも彼が初めてギター製作してから40年が経過した'95年には、年間約10本にまで製作ペースを抑えていたのである。その頃のトニーは体力の衰えを自覚していたこともあり2000年に引退を表明、最後を飾るに相応しい美しいパール・フロントで締め括った。

 '02年8月、トニー・ゼマイティス死去のニュースが伝えられた。近年、我が国で設立されたゼマイティス・オフィスよって彼の意志が継承され、トニー自身が所有していたテンプレートや図面に忠実にボディやパーツを製作し、トニーのパートナーだったダニー・オブライエンのデザインによる彫金が施されたギターの生産が開始された。トニーの死によって幻と化すかと思われたゼマイティス・ギターが、こうして多くのギター・ファンの手に渡る機会が設けられたことは、今後のギター文化を刺激する意味でも喜ばしいことなのではないだろうか。

(川上啓之)
写真:プレイヤー別冊「ハンドブック」より転載

→ ジョン・ディアンジェリコ へ

レオ・フェンダー Clarence Leonidas Fender(1909〜1991)

 エレクトリック・ギターのフィールドにおいて、画期的な発明を次々と生みだした功労者を挙げるとすれば、その筆頭となるのはレオ・フェンダーに間違いないだろう。ソリッド・ボディのエレクトリック・ギターをいち早く市販化した功績のみならず、その当初のデザインのギターが現在でも第一線で使用されているという恐るべき事実だけでも、彼の名前をギターの歴史に刻むのに十分だが、それ以外にも彼は現在にまで受け継がれる数々の画期的な発明を残した。彼の足跡と、その偉大な業績を追ってみよう。

 1909年8月10日、カリフォルニア州アナハイム近郊の農家に生まれたクラレンス・レオナルド・フェンダーは、幼い頃から工具や機械に強い興味を示す子供で、成長してからは同時にカントリーやヒルビリー、ハワイアンなどの音楽にも惹かれていった。レオの少年時代の、その二つの興味の接点がラジオだった。'20年にはアメリカで世界初のラジオ放送が開始され、ラジオが最先端の電子機器技術としてレオの目に映った。ちょうどその頃、電気関係の仕事をしていた叔父が自作でラジオを製作していたことにも強い興味を持ち、叔父からの手ほどきもあり、エレクトロニクスにのめり込んでいく。そしてハイ・スクール時代には知り合いの所有するラジオやオーディオ機器の修理を手掛けるようになった。ハイ・スクール卒業後はジュニア・カレッジで会計士の勉強をしながら独学で電子工学に対する造詣を深め、PAシステムを自力で組み上げ、それを貸し出すという仕事も始めた。'30年頃には公務員試験をパスし、経理事務の仕事を得たが、折からの不況で十分な収入を得ることが出来ず、得意な電子工学と電気機器に対する知識を生かし商売を始めることを決意した。

ijin_fender_a.jpg
写真A:レオ・フェンダーは当時のパートナーであった
ドク・カフマンとともに、エレクトリック・スティール・
ギターとギター・アンプを次々に開発した。
稲妻をデザインしたロゴ・マークがユニークだが、
電気楽器であることをアピールしている。

 '38年、レオはフェンダー・ラジオ・サービスを設立する。ラジオや音響機器の販売と共に修理も手掛けたレオの元に、地元のミュージシャンがリペアのためにギター・アンプやエレクトリック・ギター、スティール・ギター持ち込むようになり、レオはそれに興味を持つようになった。まだ生まれて間もないアンプやエレクトリック・ギターのデザイン上の不備を察知し、それを改善するアイデアを練り始めた。まもなくレオはカスタム・オーダーでアンプの製作を始め、楽器用のピックアップのデザインも手掛けるようになった。その頃、レオの店に出入りするミュージシャンの一人にドク・コフマンという男がいた。ドクはミュージシャンでもあり、初期のリッケンバッカー社で働いていた経歴も持ち、楽器についても様々な知識を持っていた。二人はまず新しいレコード・チェンジャーの設計を手掛け、続いて独自のピックアップを開発し'44年にパテント申請を出した。そのピックアップが取り付けられたソリッド・ボディのスティール・ギターは地元で評判を呼び、'45年、レオとドクはK&Fマニファクチュアリングを設立し、エレクトリック・スティール・ギターを製品化した。数種類のラップ・スティール・ギターと、それと組み合わされるアンプを開発し、ラインナップも充実し業務拡張を計ったレオだが、ドクはビジネス面で折り合いが合わず、会社を去ってしまうこととなった。(写真A)

ijin_fender_b.jpg
写真B:テレキャスター/エスクワイヤーが
デビューした当時のポストカード。
ギターと言えばアコースティック・ギターを
誰もが想像した1940年代ならではで、
エレクトリック・ギター各部のディティールが
描かれている。また、フェンダー・ロゴも
現在では見られないデザインだ。

 '46年、レオはドク・カウフマンがK&Fを去ったのを機に社名をフェンダー・ミュージカル・インストゥルメンツ・コーポレーションに改めた。第二次大戦の影響で生産体制が停滞していた他の楽器メーカーに対し、新興メーカーであるフェンダー社はスティール・ギターとアンプの分野で好調にシェアを広げていった。そして'48年、レオはスパニッシュ・スタイルのエレクトリック・ギターのデザインに取りかかった。その頃のエレクトリック・ギターはフル・アコースティックのボディにピックアップを取り付けたものが主流であったが、レオはボディの共鳴が弦振動に影響を与え、クリアでサステインに優れたサウンドを得られないと考えた。レオは、それまでのエレクトリック・ラップ・スティール・ギターの長所をスパニッシュ・ギターに採り入れようと考えたのだ。同じ頃、マール・トラヴィスがポール・ビグスビーと組んでカスタムメイドのソリッド・ボディ・エレクトリック・ギターを製作していたが、レオはそれにインスパイアされつつも、量産品として優れた生産性を備えながらも素晴らしいサウンドと演奏性を持ったギターを目指した。いくつかのプロトタイプを経て完成したエレクトリック・ギターはブロードキャスターと名付けられた。レオがエレクトロニクスに興味を持ち始めたきっかけの一つであるラジオ放送にあやかったモデル名を与えられたこのギターは、空洞を持たないソリッド・ボディというだけでなく、別に加工されボルトでボディと接合されるネック、直接ワンピースのネック材に打たれたフレットなど、画期的な構造を備えていた。それは製造時の工程を簡略化出来ると共に、メンテナンス性にも注意深く考慮した仕様であった。他にもソリッド・ボディならではのボディ・デザインの自由度を生かした深いカッタウェイの演奏性の高さ、2弦一組ずつながら独立してイントネーション調整が行なえるブリッジ、ペグがヘッドに1列に並びチューニングのしやすさというメリットも生んだヘッドのデザインなど、それまでの量産型エレクトリック・ギターにはない長所を備えていた。こうして誕生したブロードキャスターは、最初は否定的な意見も多く聞かれたが、地元のギタリストを中心に浸透していった。(写真B)

 続いてレオはエレクトリック・ベースの開発に取り組んだ。それまではポピュラー音楽でも低音弦楽器は巨大なボディながら音量的に問題のあるアップライト・ベースしかなく、レオはこれをエレクトリック化しソリッド・ボディに置き換えることで大きなメリットが生まれると考えたのだった。更にレオは、フレットがなく演奏の習得が困難で音程の取りにくいアップライト・ベースに対して、ギターのようにフレットを打つことで、誰にでも簡単にプレイ出来るベースを作り出せると考えた。'51年に発表されたエレクトリック・ソリッド・ボディ・ベースはプレシジョン(正確な)・ベースと名付けられ、フレットを持つ優位性をアピールした。まだブロードキャスター(その頃には商標の権利問題でテレキャスターにモデル名を変更していた)も十分に受け入れられていなかった時代のこと、プレシジョン・ベースは最初は冷笑されていたが、現在のエレクトリック・ベースの規範がこのプレシジョン・ベースであり、その普及率を見ればレオの発明の偉大さは考えるまでもないだろう。

ijin_fender_c.jpg
写真C:ストラトキャスター・デビュー当時の
ポストカード。フェンダーらしさを継承しつつも、
あらゆる面で斬新なアイディアが盛り込まれた
ギターであり、サウンド、機能性、デザインなど
のすべてが、現在のギター・シーンのベースと
なった。

ijin_fender_d.jpg
写真D:ストラトキャスターがデビューした
1954年のフェンダー製品カタログ。
このときジミ・ヘンドリックスとエリック・
クラプトンはまだ9歳の子供に過ぎなかった。

 ストラトキャスター以降も、ジャズ・ベース、ジャズマスター、ジャガー、ムスタングなど、現在に至るまで多くのギタリストに愛用される名機を生み出し、アンプに関してもそれまでの歴史を変えるような素晴らしい製品を開発し続けてきたレオだが、'65年には健康上の理由から社長の座から退き、フェンダー社をCBSに売却することとなった。レオは顧問という形でCBS傘下となったフェンダーに製品のアイデアを提供するという立場となった。'70年にレオとCBSの契約が切れた後、彼はフェンダー社の副社長だったフォレスト・ホワイト、フェンダー・セールス社にいたトム・ウォーカーと共にミュージックマン社の設立に関わり、ギター/ベースとアンプのデザインに携わった。レオがフェンダー社のコンサルタント業務のために独自に設立したCLFリサーチ社が製品開発と製造を行なうという形で、ここでも現在も多くのベーシストに愛用されるスティングレイ・ベースが生まれた。

 '70年代の終わり頃、経営上の問題からミュージックマン社と距離をおくようになったレオは、自らの新しいギター・ブランドを設立すべく動き出す。'40年代からレオの右腕として働いてきたジョージ・フラートン、フェンダー社でセールスの仕事をしていたこともあるデイル・ハイアットとともにG&L社を新たに設立した。G&Lは、レオがこれまで生み出してきたものに加え、新たなアイデアを盛り込んだモデルを世に送り出し、レオの理念に基づいた製品作りは今もなお継承され続けている。

 '91年3月21日、レオ・フェンダーはこの世を去った。享年81才、死の間際までG&Lの新製品の開発に取り組んでいたさなかの死だった。

(川上啓之)
写真:“The Guitar 5”より転載

→ トニー・ゼマイティス へ

オーヴィル・ギブソン ORVILLE H.GIBSON(1856〜1918)

 世界を代表するギター・ブランド創業者として名を残すオーヴィル・ヘンリー・ギブソン。彼が生きた時代は、エレクトリック・ギターはもちろん存在せず、現在製品として流通しているスティール弦のフラットトップ・アコースティック・ギターも黎明期であり、彼自身が創造した楽器がそのままの形で現在に継承されているわけではない。しかし、アーチトップ・ギターに代表される彼が考案し作り上げた楽器は、その歴史上大きな意味を持ち、古典として成立している。彼の残した足跡を探ることで弦楽器製造の潮流が見え、彼の名前が現在に至るまで受け継がれている意味が解ってくるだろう。

 1856年ニューヨーク州シャトーゲイという街で生まれたオーヴィルは、1881年に故郷を離れてミシガン州カラマズーに移住し、ここで靴屋の店員をはじめ、様々な職種に就いて働き、その傍らでパートタイムでギターをプレイし、趣味の木工に勤しんでいた。その流れで弦楽器の製造に興味を持ち、本業の暇を見ては古い家具から採った木材を使用してヴァイオリンやマンドリン、ギターを作り始めた。最初は自分で演奏して楽しんでいたが、元々手先が器用で音楽的感性にも恵まれていたオーヴィルの作る弦楽器は周囲の評判となり、次第に“売ってほしい”と言う人も現れるようになった。1896年、オーヴィルは弦楽器製作を本業にすることを決意し、靴屋を退職して弦楽器工房を開いた。カラマズーのサウス・バーディック通りに開いた彼の工房はわずか10平方メートルの狭いものだった(写真A)。彼は新築のために解体されたボストン市庁舎の古い建材や調達品を買い取り、それをヴァイオリンの材料として製作を始めた。彼がその頃に製作したヴァイオリンは古典弦楽器の本場であるヨーロッパにまで渡り、高い評価を得たと記録されている。オーヴィルはヴァイオリン製作を取っ掛かりに、マンドリン、ギターへと手を広げていった(写真B)。

ijin_gibson_a.gif
写真A:1896年にオーヴィルが
開いた弦楽器工房の様子。
ijin_gibson_b.gif
写真B:1900年以前にオーヴィルが
製作したマンドリンとギター。

 オーヴィルはギターやマンドリンの製造に削り出しによるトップ、バックだけでなく、サイドも削り出しによって製作した。これはヴァイオリン製作から採り入れたアイデアと思われるが、その頃は既に薄い板に曲げ加工を施してサイドの曲面を作り出す手法が中心になっていたにもかかわらず、オーヴィルには“圧力をかけて曲げた材はストレスを生じており、それよりも削り出しによる材の方が音響特性の点で優れている”という信念があったようだ。ヴァイオリン製作の手法をギターに採り入れたアーチトップ・ギターのデザインの源流は、オーヴィルが生み出したものだったのだ。またネックはホロウ構造という現在では目にしないものだったが、これもボディの共鳴室の延長としての役割を持ち、振動のクオリティを高め、美しい音色が得られるという理念に基づくもので、オーヴィルはこの構造によってパテントを取得していた。オーヴィルの作り出したマンドリンも、それまでにあったものとは全くことなるデザインを備えており、洋ナシ型とフロレンタインと呼ばれるスクロール・デザインを採り入れたボディのものがあった。このフロレンタイン・シェイプは、丸いサウンド・ホールの形状を除き、ギブソン社が現在に至るまで生産し、多くの他メーカーに模倣されたそのままのデザインとしてこの時点で完成されていた。オーヴィルはこの他にもハープ・ギター(写真C)やハープ・チター(写真D)などのユニークな弦楽器の製造も手掛けた。彼がこの頃製作した楽器のヘッドには月と星をモチーフとしたインレイが見られるが、これはミシガン州グランド・ラピッツに住むトルコ人職人によるものだった。

ijin_gibson_c.gif
写真C:オーヴィルが製作したハープ・ギター。
通常の6弦の他に、12本のサブ・ベース・ストリングを
備えている。ボディのバインディングは、
真珠貝とエボニーが交互に埋め込まれるなど、
丁寧な仕事ぶりが伺える。
ijin_gibson_d.gif
写真D:オーヴィルが製作したハープ・チター。
5本のメロディ用の弦に加え、32本の開放弦が
張られている。非常に独創的かつ優雅なデザインで、
32本の弦を支えるテイル・ピースも印象的だ。

ijin_gibson_e.gif
写真E:1900年初等の
“ギブソン・マンドリン-ギター・カンパニー”
(1906年にザ・ギブソン・マンドリン・ギター・
マニファクチュアリングCO.,LTDより改名)
の挿絵。

 オーヴィルの弦楽器製作も軌道に乗り、多くの注文が舞い込むようになり、彼の後援者達がギブソンの名を冠した会社を設立することとなった。カラマズーにあったパン工場を買収し、出資者が集まって資本金12,000ドルでザ・ギブソン・マンドリン・ギター・マニファクチュアリングCO.,LTDが1902年10月11日に設立された(写真E)。社長には筆頭株主だったジョンW.アダムスが就任し、ギブソン社からは毎月、オーヴィルに対してブランド名と彼が取得した特許の使用料を支払う形となった。オーヴィルはコンサルタントとして工場に出向いて製作上のアドバイスをすることはあったが、彼自身は会社経営には興味がなく、まったく関わることはなかった。彼はギブソン社が設立された後、実際にはほんの初期しか密接な関わりを持たず、独自で楽器製造を続けたという。

 '11年から健康を害していたオーヴィルは'16年にはカラマズーを離れ、ニューヨーク州オグデンスバーグの病院で治療を受けていた。'18年8月21日、オーヴィルH.ギブソンは62才でこの世を去った。死因は心内膜炎だった。   

(川上啓之)
写真提供:株式会社山野楽器 海外営業部(“The Gibson Story”より転載)

→ レオ・フェンダー へ

C.F.マーティン C.F.MARTIN(1796年〜1873年)

 アコースティック・ギターのトップ・ブランドとして君臨するマーティンの創業者であるクリスチャン・フレデリック・マーティン。1833年創業の古い歴史を持つこのブランドを築いた彼の名前は、今も同社のトレードマークとして創業年と共にそのイニシャルが刻まれている。アコースティック・ギターの画期的な構造を発明し、マーティン・ブランドの繁栄の基礎を作り上げただけでなく、現在のフラットトップ・アコースティック・ギターの原型を作り上げたのだ。彼のギター製作に従事した波瀾万丈の半生をここで振り返ってみよう。

 クリスチャン・フレデリック・マーティンI世は1796年、現在ではドイツの東部にあたるマルクノイキルヘンという小さな町に生まれた。その頃のマーティン一族は家具を中心とする木材加工の仕事を生業としており、彼の父親のヨハン・ゲオルグ・マーティンはその頃、ヴァイオリンのケースや出荷のための箱を製作する仕事に就いていた。その関係でクリスチャンは幼い頃から楽器製作に興味を持っており、同時に家族から木工技術を仕込まれていた。15才の時、クリスチャンは当時のヨーロッパの代表的なギター製作家のヨハン・ゲオルグ・シュタウファーの元でギター製作を学ぶため、オーストリアのウィーンへと赴いた。若くして才能に恵まれていたクリスチャンは、シュタウファーの工房で製作監督を務めるほどまでになった。1825年、クリスチャンはマルクノイキルヘンに戻り、そこでヴァイオリンとギターの製作を始めようとした。だが、当時そこでは楽器製造に関してはヴァイオリン職人のギルドが支配しており、クリスチャンの家族がキャビネット職人のギルドに所属していた関係で、クリスチャンは楽器製造を禁じられ、この問題は組合間の闘争にまで発展し、クリスチャンはその渦中に巻き込まれてしまった。この騒ぎの中で疲弊し、経済的にも苦しくなってしまったクリスチャンは、家族を連れてアメリカに移住する決意をした。

 1833年9月、ニューヨークに渡ったマーティン一家は、その年の暮れにロワー・イースト・サイドのハドソン・ストリートに楽器店を開いた。様々な楽器や楽譜を販売し、楽器の修理を受ける傍ら、クリスチャンはギター製作に取りかかった。当時のクリスチャンの製作するギターは、師匠であるシュタウファーの影響を強く残したもので、片側に6個のペグが並び、ヘッドの先端が円を描くような、後のフェンダー社のヘッドを連想させるようなものだった(写真A、B)。

9BCT0188.gif
写真A:師匠・シュタウファーの影響が色濃かった、
最初期のモデル(ナザレス工場のマーティン博物館に所蔵)
stauffer.gif
写真B:'97年に25本が限定製作された
復刻モデルOO-45とコフィン・ケース。

xbrace.gif
写真C:C.F.マーティンが1850年に
発明したXブレイシング・システム。

 初期のマーティン・ギターの特徴として、ユニークなアジャスタブル機構を備え、ボディに対するネックの高さを上下に調整することが出来た。しかし弦のテンションによってずれてしまうこともあり、この機構は後に姿を消すこととなった。その頃、クリスの製作したギターは週に1本売れるかどうかのものだったという。

 アメリカに移住して6年後の1839年、都会での暮らしに息苦しさを感じたクリスチャンは、楽器店を手放し、同じくドイツから移住した友人の薦めもあり、生まれ故郷に似た雰囲気もあったことから、家族と共にペンシルヴァニア州ナザレス郊外のチェリー・ヒルに移住した。楽器店経営の煩わしさからも開放されたクリスチャンは、この地で本格的にギター製作に取り組み、シュタウファーの影響から脱したオリジナリティを確立していった。1830年代にはブリッジをマーティン独自のものとし、1840年代には、ヘッドを現在の0スタイルなどでも見られるペグの配置が3対3のスロテッド・ヘッドのデザインへと改めた。この頃には工房も拡張し、何人かの従業員も抱えるようになり、クリスチャン一人で作っていた時期よりも多くの数のギターを生産するようになっていた。また、多くの楽器問屋やギター教師ともネットワークを築き、数は多くはないものの全米各地に販売網を広げていった。

 クリスチャンがギターを改良していく流れの中で、クラシック・ギターから継承される伝統的なファン・ブレイシングに代わるものとして1850年に発明したのがXブレイシングだ(写真C)。このブレイシングによってボディ・トップの強度は増し、大型化とスティール弦への対応が可能となったのだった。ギターは元々ヨーロッパで誕生したものだが、クリスチャンのこの発明によって、スティール弦のフラットトップ・ギターの歴史が幕を開けたのだ。

 こうしてマーティン社の基盤を築き上げたクリスチャン・フレデリック・マーティンは、1873年2月26日、永遠の眠りについた。1897年にマーティン社は初めてシリアル・ナンバーをギター内部に刻印するにあたり、その番号を8,000番からスタートした。これはクリスチャンとその息子、孫の代に渡る1833年から1896年までに製作したギターの生産台数を割り出して決定した数字だった。その頃のマーティン社の状況を考えると、クリスチャンによって製作された数はその2、3割程度かもしれない。現在の生産台数から考えるとごくわずかである数のギターが、マーティン社の栄光を生み出したとも言えるだろう。

(川上啓之)
写真提供:株式会社 黒澤楽器店

→ オーヴィル・ギブソン へ

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。